Clubhouseとマルチビジネスと〈オリエント急行〉の私たち
- 月嶋 修平
- 2021年2月17日
- 読了時間: 5分
私たちは寂しく、金が必要だ。
孤独であり続ける人などいない。誰かと喜びや悲しみを分け合って、時にその配分で争うこともあるのだが、とにかく人と人との間で、人は生きる。誰かに話したい。誰かに知ってもらいたい。あなたを知りたい。あなたに知ってもらいたい。
また、衣食住、交通、余暇、何にとっても全てに金は必要で、それはもはや無人島における“水”のようなものだろう。資本主義社会下で、金は全ての始まりであり、全ての手段である。働かざるもの、食うべからず。寂しさを埋めるのにもまた、金が要る。
先日巷で話題になったソーシャルネットワークサービスに「Clubhouse」がある。“招待制”という誇示的消費心をくすぐるこのSNSは瞬く間に広がり、事実私もアカウントを得た。肯定的、否定的言説が飛び交っているのもわかる。社会的な権威、発言権を有するものの“意識が高い”語り、という評論もイヤというほど見た。斜に構えるスノッブの気持もわかるし、上手く活用していこうという意見もわかる。「馬鹿が増えておもしろくなくなった」、嗚呼、選民思想、選民思想——。「アカウント持ってるマウントが鬱陶しい」、嗚呼、別領域マウント奪還——。
そもそも、私自身は意見することも憚られた。TwitterやInstagramを始め、SNSに関する論評自体が“出し尽くされた”“つまらない”もののように思えてしまう。次から次へと現れるツールに、一喜一憂するのも考えるフリをするのも疲弊する。
ただ近年、“心の労使関係”とでも名付けようか、人の心的な利用・被利用に関して、みな敏感になっているようには思う。西野亮廣氏の『えんとつ町のプペル』のマーケティング手法に関して盛り上がるのも、その一例だ。「信者は利用されているだけだ」、「金の稼ぎ方が度を越している」。「西野さんはすごい」、「作ったものを多くの人に見てもらいたいのは当然だ」。「こんなの、マルチビジネスだ!」。
私はかつて、マルチビジネスに対して激しい怒りを覚えていた。直接自身が被害にあったわけではないが、その「人間関係を金に換える」システムに苛立ちを隠せなかった。クラブで声を掛けた女の家に上がり込み、大量の“サテニーク”や“トリプルX”にゾッとしたこともあるし、逆ナンしてきた(と思っていた)女に「お金って二種類あるって知ってる?」と尋ねられたこともある。勤務していたキャバクラやセクキャバ、ホストクラブにもマルチビジネスは蔓延っていたし、田舎から都市部に出てきた若者は“喰われる”と、肌感覚でわかった。だから、そんな人たちに論戦を仕掛けたこともあった。こんなのは絶対におかしい、そう信じて止まなかった。しかし返ってくる言葉といえば、「一緒に成長しよう!」、「結構楽しいよ、バーベキュー来る?」、「月嶋くんは恵まれてるからわかんないんだよ」——。
マルチ“ビジネス”と名が付いている以上は、経済活動と定義される。しかし彼ら/彼女らを「人間関係を金に換える」資本主義の奴隷と断罪するのは早計だ。勿論金が欲しい、“人脈”を得たい、楽して大金を手にしたいのだが、それ以上に彼ら/彼女らは寂しい。寂しさを埋めたい。自分が相手にとっては稼ぐ道具なのもわかっている。と言うよりも、そんなことは最早どうでもいい。人と話したい。会いたい。わかって欲しい。認めて欲しい。それほどまでに、人との繋がりはなにものにも代え難い。
そもそも、「人間関係を金に換える」点に関しては、誰もが堂々と指を指し批判できるものではない、と思う。多かれ少なかれ、私たちは生きていくために同じようなことをしている。小さな輪のなかで“信じて”もらい、その輪から金を得る。やっていることはみな一緒であり、あとはその輪を大きくしようと躍起になるだけだ。その輪の大きさを競うのが資本主義であり、みなが内心それを肯定している。自由主義を標榜しているから、輪が上手く作れないものは淘汰されていく。私はClubhouseで熱心に配信をするわけではない。マルチビジネスもしていない。『えんとつ町のプペル』も見ていないし、さかのぼるとキングコングの漫才も好きではない。が、結局“輪作り”には不本意ながら参加してしまっているのだ。 それは私だけでなく、あなたもそうだ。バンドマン、漫画家、美容師、外回り営業、あなたがなにをしていようと、その“輪作り”の過程は存在してしまう。
それは単純に金のためかもしれないし、寂しさを埋めるためかもしれない。何のためであっても、全てのことに金は纏わる。勿論それは何かしらの対価であるのだから、受け取るのは当然だ。しかし本当は——好きな人にお金なんて払わせたくはない。その金で旨いものでも、気の合う奴と楽しく食べていて欲しい。
輪が大きくなれば、その構成員のひとりひとりの個人性は薄まり、罪の意識は小さくて済む。輪が小さければ、そのひとりひとりの顔や生活が想起され、先述のようなジレンマを抱えることになる。
結局、私たちは共犯者だ。自らの孤独に耐えることが出来ず、人との関係を金にしたり、金の出る泉にしたり、あろうことかその泉の建設作業員として人をこき使ったりもする。人を寂しさを埋める梱包材として雑に放り捨て、暇つぶしの道具としてその心の突起をプチプチと潰したりもする。そしてあたかもそうではないように笑顔で「おつかれさまです」と会釈し合い、握手をする。いやぁ、久しぶりに身体を動かすっていいですね。そう言って貰えると、コチラも頭が下がります。どちらか、あるいは両方が、陰でニヤリと笑う。してやったぞ、馬鹿め。
ある特定の人間に、みなでナイフを一突きずつ。そして何もなかったかのように、上品に襟を正して、シャンパングラスに映る自らの姿にうっとりする。これは正しいことなのだから。あいつは当然の報いを受けただけではないか。
オリエント急行に乗り合わせた私たちは、罪の意識なんてあるはずもない。なぜなら、あのポアロだって見逃してくれたじゃないか。
一つ、あの物語と違うのは、「私だけの罪にしてはいただけません? 私はあの男を十二回だって刺したことでしょう」という美しい声は、未だ響き渡ってはいないということだ。
「人は孤独だ」、そんな当たり前のことを当たり前に大音量で響かせる世界は耐え難い。もちろん人は孤独であるのだが、そんなことは言わず心に留め置いて、人を好きになったり嫌いになったり、そして使ったり使われたりし、泣いたり笑ったりすること以外に、生を肯定する術など存在しない。これは決してニヒリズムなどではない。鷲の勇気と蛇の知恵なんかなくとも、私たちには私たちなりの勇気と知恵がある。
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