最前列と柵
- 月嶋 修平
- 2021年7月21日
- 読了時間: 6分
更新日:2021年7月23日

十年近く前の話だ。
大学の後輩、女に「みんなで一緒にストリップを観に行きませんか」と言われたとき、私は「YES」と反射的に返すことは出来なかった。
「あー」とか「うー」、「せやなぁ」とか言いながら考えた挙句、答えた。「その後の飲み会からやったら行くわ」。
断っておくが、もちろん女体やストリップに興味がないわけではない。
あのころの僕は二十代前半だった。興味本位ではあるが、就活の合間に新宿最古のストリップと言われる「窓女(マドンナ)」にも行ったことがある。ここは、本当に凄まじく安く、その他もろもろ語るべきこともあるのだが、それは今はいい。とにかく私は、今風に言えば、シスジェンダー・ヘテロセクシュアルである。
一方私は性風俗産業に対しての態度を決めかねており、いわゆる「本番行為」があるような風俗店に行ったことはない。デリバリーもしてもらったことはなければ箱ヘルにも行ったことがない。ホストクラブで働き、主にそのような女たちを相手にしていたのに、なんとも皮肉な話ではある。否、そういう女たちに金を払ってもらっていたからこそ、金を払って女を買うことに引け目を感じていたのだろう。
ただ、この時「YES」と言えなかったのは、性風俗に対する態度の問題というよりは、なにかしらを鑑賞する鑑賞者の態度、ないしは、そのストリッパーに対する態度の問題であるように思う。当時はあの感情をうまく言葉に出来なかったが、今であれば落ち着いて考えることができる。なにしろ長い年月が経った。
要は、ストリップ小屋というところには、「エロい!」という気持ちに、なりに行かねばならない。
仮定、もし私が女で、それも【プロフェッショナルストリッパー】であるならば、それはもう、男たちにはものすごくエロい気持ちになって欲しい。欲情に欲情を重ね、生を実感するほどに性を感じてほしい。女が観に来る分には、「客は客」と割り切るが、「本当に私のエロスを理解できるのか」と鼻で笑う。また、私が金欲しさに適当に舞う【アマチュアストリッパー】であったとしたら、無論やる気はないのだが、若い女になぞ見に来て欲しくない。
彼女らの踊りに、幾分の美しさ、芸術性と言えるものがあるのは認めよう。そしてその美は人類全体に開かれたものなのかもしれない。しかし女子大生がわらわらと来て、人類学だか社会学的見地だか知らないが、そんな勝手に無機質な研究対象にされる、あるいは単純に社会勉強の一端、ダークツーリズムぐらいに思われる——同性の、しかも輝かしい未来ある京大の女たちに裸を見られるなんて、私なら虫唾が走る。お前らのための裸でも、お前らのためのおっぱいでもまんこでもねえんだよ! 心の中で、或いは口に出してそう叫ぶ。
何にせよ実体験を通してのみ感じられることもある。知らない状態でいるよりは、知る方が良いに決まっている。フェミニズムでの文脈、社会における弱者として、とかく語られ議論になる彼女たち——様々な考え方があるのは承知であるが、私は一方的に「可哀想な人たち」と断じることは残酷だと思う。そもそも性風俗産業を許容すべきなのか、彼女たちは本意なのか、論点は各々あろうが、はなから彼女らを「別世界の人間」と見做し、観察するという姿勢には少なからず不快感を覚えたわけだ。アカデミックな見地、というのはいかにも権威的である。どれだけ細心の注意を払ってフィールドに出ようとも、そこでの「高みから見下ろすような」感、を拭い去るのは容易でない。
だから、私はその時誘いを断ったのだろう。そして飲み会から合流して、後輩たちの「初めてのストリップ観賞報告」を聞き流していた。本当に聞き流していたから、何を言っていたか覚えていない。
安全地帯、それも高台の安全地帯から眺めるという不均衡。人間個人のバイオリズムによっては、それが楽しいこともある。高台から何かを見下ろすのは気分がいい。一方で、罪の意識を感じることもある。「こんなことを思っていいのだろうか」「こんなことを思ってもいいのだろうか、と思ってもいいのだろうか」。
誰か、なにかを、平行に、可能な限り、メスシリンダーを読むときのように見るためには、こちらもそれ相応のリスクを払うべきだ。例えば、素晴らしいストリップショーを見るには、ものすごくムラムラして行かねばならない。或いは、それが不可能ならば、いっそ指をさし笑う覚悟を。
同様の話はもう一つある。
大学のとき、当時付き合っていた彼女が「裁判の傍聴に行こう」と言ってきた。私は気乗りせず、曖昧な返事を返していたが、いよいよ彼女の機嫌が悪くなっていったので、しぶしぶ諦めた。平日に、二人で自転車を数分転がして、京都地方裁判所にたどり着く。
裁判所の受付(?)で、その日やっている裁判の一覧を見せてもらう。借金、薬、借金、薬、借金、薬、薬——遺産相続。
私と彼女は、「これだ」と決めた。どうせなら、面白そうな方がいい。
傍聴席には、私と彼女の他に数人、年配の女性たち。手に汗握り椅子から乗り出している様を見る限り、当事者なのだろう。その裁判は、四人姉妹が、父の遺産を巡って争っていた。
年配の方々が、それも身内同士が、大金を巡って争い合う。亡くなった父は認知症であったらしく、裁判の進行も容易ではない。言った、言わない、言った、言わない。泥沼のような罵り合いに、私は「可哀想だ」と思った。熱心にメモをとったはずだったが、そのノートは今どこにあるかわからない。覚えているのは、私たちは後味悪く裁判所を後にし、彼女と居酒屋で海鮮を摘みながらビールと日本酒を飲んだこと。裁判所で吸う煙草が旨かったこと。
しかし後に、私自身の「可哀想だ」という発言は不穏当だと思った。彼女らは、紛れもなく身を削って戦っているのであり、それを高台から酒の肴のように見ているなんて、ローマ時代のコロッセオと同じだ。裁判の傍聴という行為を、全て否定するわけでない。我々に許された権利であり、「開かれた裁判」のためには必要だろう。しかし、戦っているのは生身の人間であり、誰もがそこに立つ可能性がある。
「向き合う」という表現が、私はきらいだ。なにせ人が何かに向き合うのは大変に難しい。上手く向き合えたところで、目線が平行であることなんて万に一つもありえない。「自分と向き合う」「相手と向き合う」、誰とも向き合ってこなかった人間の言葉だと断ずる。
刮目、凝視しようとも、彼ら彼女らと私とを分かつ柵が消えることはない。むしろ、安物のデジダルカメラのように、彼ら彼女らにピントを合わせようとすればするほど、その前面に在る柵に、何度も何度も焦点は合ってしまう。柵越しに彼ら彼女らの表情は、なかなかに読み取れない。
あたかも柵がないかのように感情移入したフリをするよりは、柵越しに手を叩いて笑っている方が、よっぽど人間らしい振る舞いなのではないかと思う。柵越しでも、手は合わせられる。それに嫌気が差すなら、柵を飛び越えていくしかない。
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