『ガラスの靴』の不在配達
- 月嶋 修平
- 2021年4月25日
- 読了時間: 9分
更新日:2021年4月26日
流行りの曲、安い重低音が流れる店内で、金麦の大ジョッキをゴクゴクと飲み、"よだれどり"と"ホルモンねぎ盛りポン酢"を特に顔色を変えることなくつまみながら、目の前の男はしみじみと云う。「おれ、今日〇〇に告白しようと思うねん」。おお、そうか、と私は答え、お互いに目線を合わせることなく、また金麦をゴクゴクと飲む。隣の席のくだらない話も、なぜか今なら聞き流せる。大きな戦の前には些末なことなどどうでもよくなるものだ。酒を飲みきり煙草を吸いきり、まるで世紀の大仕事をするかのように私と男は立ち上がる。ほな、いこか。実際のところ、私はそれほど応援しているわけでなくとも、男の背中はたくましく、頼もしく見える。 歳をとるごとに、こんな経験は少なくなってくる。飲む店が変わる。「告白」なんて言葉も聞かなくなる。一世一代、好意の告白は一種のギャンブルであった。もっともその"張り方"は人それぞれで、私なんかは入念に外堀を埋めて、確率を上げに上げてからベットする。もちろん、はなからそうであったわけではない。高校生以降に学んだ悲しき処世術である。 好きな子に告白してOKをもらえるか。それが少年期の男のもっとも重大な関心事であり、そのために生きる、といっても過言ではない。そして敗れ、学び、青年期には傷つかない距離感を探るようになる。複数の女を『ときめきメモリアル』ばりに上手くコントロールして、誰かの"爆弾"が爆発しないよう慎重に。リスクヘッジ、リスクヘッジ。セフレ、女、あいつ、呼称は様々あれど、すべて傷つきたくない面倒くさがりの戯れであろう。その紆余曲折ののち、あたかも「本当の愛を知りました」と言わんばかりの顔で、結婚する(否、本当に、本当の愛を知っているのかもしれない)。一人の配偶者を愛し、愛され、ときに自問自答し相手と喧嘩しながら、他の人に目移りしたりしなかったり、浮気したりしなかったり、そのまま一緒に生きたり、別れたりする。その後にどうなるかは、私は知らない。三十年程度生きたところで達観することなんか不可能で、今までもこれからも、女について右往左往し続ける。それが現状の私の諦めでもあり決意でもある。 しかし恐れずにいうと、私は今でも女が怖い。 『ガラスの靴』(1951)は、安岡章太郎の処女作にして、芥川賞の候補にもなった短編小説である。同名の文庫本はもちろん存在し、私は『バイトの達人』(1993)というアンソロジーに収録されているものを読んだ。(ちなみにこの『バイトの達人』は、すべての力なきフリーターにおすすめできる本だ。)
主人公の"僕"は猟銃店Nで夜の番のアルバイトをする大学生、仕事はのんびりと湿度計、温度計を眺めるだけ、「住居のない僕」はそういう風に「朝晩のメシと夜の居場所」を得ていた。時代の差もあろうが、何とも逞しく思える。
そんな“僕“は、ある日原宿にある米軍軍医クレイゴー中佐の家に、散弾を届けることになる。そこでメードとして住み込みで働く、青白い顔をした悦子と出会う。
その日、僕は意外にゆっくりしてしまった。帰りしなに彼女は、またあのテレたような笑いをうかべて、よかったらときどき遊びに来てくれと云った。僕は彼女の言葉にしたがった。その方が、かたい椅子しかない学校に行くより余程よかったから。
悦子と親しくなっていくにつれ、“僕“は疑問を抱く。悦子は知らないことが多すぎるのである。
「あなた、ヒグラシの鳥って、見たことある?」
僕は驚いた。悦子は二十歳なのだ。問いかえすと、彼女は口もとにアイマイな笑いをうかべている。そこで僕は説明した。
「ヒグラシっていうのはね、鳥じゃないんだ。ムシだよ。セミの一種だよ。」
悦子は僕の言葉に仰天した。彼女は眼を大きくみひらいて、——悦子の眼は美しかった——「そうオ、あたし、これくらいの鳥かと思った。」と手で、およそ黒部西瓜ほどの大きさを示した。……僕は魔法にかかった。ロバみたいに大きな蝶や、犬のようなカマキリ、そんなイメージが一時にどっと僕の眼前におしよせた。僕はたまらなく愉快になり、大声をあげて笑った。すると彼女は泣き出した。
「あなたのおっしゃることって、嘘ばっかり。だってあたし見たんですもの……軽井沢で。」
そうやって涙を流す悦子を、“僕“は横から抱いてみる。そして髪の毛をかきあげ、耳タブに接吻する。あとから不安になったのは“僕“の方だ。下卑たことをした、彼女はどう思っているのだろう。
その晩遅く、悦子からN 猟銃店に電話がかかってくる。
「カエルがいっぱい飛んで来て、眠れないの。……あたしの顔に冷いものがさわるのよ。電気をつけてみたら、雨ガエルなの。何処からはいって来たのかしら、ベッドの上にいっぱいいるの、……小さな、小指のさきぐらいの雨ガエル。」
僕は、それは信ずべからざることだと思った。もし、カエルのことが本当だとしても、もう二時にちかいのである。もはやこれは、彼女のワザとやっていることにちがいなく、とすれば昼間の「ヒグラシ」もまた彼女のつくりごとではないだろうか。
「僕はいつの間にか、悦子のオトギ芝居に片棒かつがされていた。そしてそれが愉しい。」というように、“僕“は悦子と微笑ましいままごとに興じるようになる。カクレンボをしたり、追いかけっこをしたり、壁にかかる富士山の絵を見ながら「列車ごっこ」をしたり——。 そしてある日、ついに唇に、接吻をする。悦子の作ったパイを二人で食べ、そのジェロまみれになりながら接吻したのだった。それはグレイゴー中佐が家を留守にしてから、四週間が経ったころであった。 女の"少女的"無垢を楽しみ、訝しがり、それを彼女の「術」「ワザ」とだと思い、執着する。悶々と悩み、この夏休みの終わりを恐れるようになった"僕"は「悦子なしではいられなくなった」。「悦子と無関係なあらゆるものは、みなくだらなく見える」。グレイゴー中佐が戻ってきては、今までのように家に入り浸ることはできなくなるのだ。 中佐の家の食糧戸棚はもう空に近い。それが空になるとき、すなわちグレイゴー中佐が戻ってくるときは、二人の時間の終幕を意味する。まったくもって無意味なのはわかっていても“僕“は金を借り書籍や辞書を売り、その金でありったけの食糧を買って悦子に会いにいく。しかしその道中、グレイゴー中佐に会ってしまう。彼は、もう帰って来ていたのだった。思わず逃げ出し、原宿の坂を駆けおりて「云いようのない屈辱感と自己嫌悪のうちに」悦子のことを忘れようとつとめた。しかしそれは無理な話だ。手持ち無沙汰に、ただ絶望に暮れながら「ウロウロと店じゅうを歩きまわった」——「十一時頃、ベルがけたたましい響きを立てた」。 それは電話ではなかった。悦子がN猟銃店を訪ねてきたのである。 「三年ぐらい会わなかったみたい。」 僕にはその言葉がまるで別世界からきこえてくるもののようだ。 クレイゴー中佐と夫人とは、きのう突然帰宅すると、今日また出掛けてしまった。くたびれたから日光へ行って、休養してくるのだと云う。 「驚いた?」と悦子は僕の顔をのぞきこんで、「あさって帰ってくるんですって。二日間伸びたのよ、お休みが。 悦子は初めて散弾を届けた、その包み紙、それを調べてわざわざN猟銃店まで来たのだと言う。なんていじらしく、愛らしいのだろう。もちろん、“僕“もそのように思ったことだろう。しかし、このまま二人は結ばれて……なんていう読者の期待は、もちろん打ち砕かれる。私は、次の一節を未だに思い出しては自らを省みて、どこかに逃げ出したいような気持ちに駆られる。その衝撃はあたかも、上から落ちてくる大きなタライ——ずんと頭に響き、誰の目から見ても滑稽だ。
僕は確信した。この女とはもう離れられっこない。彼女と僕とは、とけあって完全に一つになるべきときが来た。……燃えたったあまりの誤算だとは知らず、僕はほてった顔を柔らかな悦子の髪のなかにうずめながら、そう信じこんだ。だから、悦子のスカートのまわりをまさぐっていた僕の手が突然ふりはらわれたときには、しんから、びっくりした。そして何かの間違いではないかと思った。 「いけないわ、そんなこと。」 そう云って彼女は、また僕の手をはらいのけた。咄嗟に僕が感じたのは、羞恥だった。ほんの少しの間、僕は赤面しながらニヤニヤした。しかしそれはすぐ裏がえしの怒りに変わった。「……そんな馬鹿なことが」と僕は彼女の手を押しかえし、「それなら何故来たんだ。」とどなった。実際僕は、彼女の頸をしめ殺したいほどだった。(…) (…)僕の疑問は「夏休み」のはじめ、彼女がヒグラシを鳥だと云った頃にさかのぼった。そしていまは、僕の見当ちがいが、悦子がまったくの少女にすぎなかったことが、あきらかにされたと思った。(…) (…)いつか悦子は起きなおっていた。飾り棚のガラスの前で、髪の毛をなおしている。 「鏡なら、あすこに大きいのがあるぜ。」 僕は寝ころんだ椅子の上から声をかけて、ハッとした。僕はいま彼女の帰り仕たくを急がせているんじゃないか。——いまこそ僕は何もかも失いつつある。(…) (…)悦子は鏡の中からふりかえった。彼女は何もしらない笑顔で、 「……駅まで、送ってくれる?」 僕はもう、おさえきれなかった。 「いやだ。……いやだ、絶対にいやだ。」 『ガラスの靴』は凄惨な悲劇である。こんなに簡単なことすら、男女はすれ違う。しかしその問題は根深い。単に”僕”を「抱けずじまいのスネオくん」と取って欲しくはない。男なら誰しもが、この羞恥に共感することができるだろう。勘違い、自惚れ、無知、どのように言葉にしようと足りない屈辱と恥。この羞恥こそ、私は忘れてはならないものだと思う。結局、私は女のことなんて何一つわかっていやしなかった——。
「幻想を抱いていた」。"僕"に対する批判としてまっとうであろう。「女に幻想抱きすぎ」は現代でも定型文として使われる。しかし、この"僕"に関して、どちらかといえば私は「幻想を信じ込めなかった」風に思う。1951年当時(七十年前!)の世の気風は推して量るしかないが、言い訳めいているのは承知であるが、いつの世も、男は女の無垢を信じきることが怖い、恐ろしいのである。そして無垢でないと思い込む。
ただ、領域や深度の差はあれど、どんな人間にもわけのわからない無垢は存在していて、そこを理解しているかどうかは大変に重要な問題である。そして、それが難しい。
単純な処女性の問題ではない。ジェンダー話やフェミニズムが広く浸透している現代、言うにはばかるが、私は男であって、他の男のこともたいしてわからない。他の女のことはそれ以上、まったくもってわからない。なぜなら私が男であって、ヘテロセクシュアルであるからだ。それをわかるようにつとめろ、と言われても、その努力をあきらめるわけではないが、それこそ一度死んで女に生まれ変わらなければわからない。
安岡章太郎の巧さは、この男の羞恥に普遍性を見出し作品として昇華したことだろう。
「鏡なら、あすこに大きいのがあるぜ。」
男性の読者に「僕はそんなこと言ったことがない!」なんて言わせない。ここでなにもかもを失う自らに気付き、帰りの見送りを断れる男が、一体どれほどいるのだろう。私ならば丁寧に見送ってしまう。そしてなにもかもを失う自身に気付かず、空虚な洞人間として違う女に腰を振っていた。わかりやすく”そんな風”であった日々を思い出すのは辛いし、「今はそうでない」なんて断じえない。
ガラスの靴は町の至るところに落ちているし、相席居酒屋やクラブなんてガラスの靴だらけ、今ではインターネットの海にもぷかぷかと浮かんでいる始末だ。それを拾い、集めたところでの問題は、その靴が合う女性がいるか、その女性を見つけられるか、なんてものではない。
女が、ガラスの靴を欲しているかどうかさえも、私にはわからないのである。
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