「ヘテロゲニウス・マルチコア」の感想文
- 月嶋 修平
- 2021年3月30日
- 読了時間: 4分
“ゲニウス“、古代ローマにおいて信仰されていた神、という。神が万物に宿る折の形象、転じて、事象自体に内在する神の性質、本展では「個人のなかにある非個人的なものすべて」を司る神、とするらしい。
件の説明を受けて、私は、かつて世に満ちていると言われていた“エーテル“の存在を思い出す。元は天上の、宗教上の、想像上のものとされていたが、のちに物理学の分野でも援用され、“波動的光“を媒介する未知の物質として扱われていた。もちろん、これは相対性理論や量子論の出現によって“存在しないもの“とされた。光は波か粒子か、光速度は不変か、神の御業とも見紛う世界の謎に、磊々たる人類の叡智はついぞ届きえた。もっとも、届いたところで、さらに高い御空がある。
八百万の神、と信仰されていたのも今や遠い昔。科学信仰、とも揶揄され、私たちは全ての「科学的事実」を信じ込む。神のために、と若い命を投げ打った尖兵、どうかお願いします、と小銭を投げ込んだ貴婦人、どちらにしたって神なんて信じていないし、人間のことさえ信じていない。実際の、実生活に根ざした意味で、私たちが神について考えなくなったのは必然だ。
一方で、私たちは、縋る。いつまでたってもわかりあえない私たちを、神が、その御力が、媒介してくれれば、どんなにか素晴らしいことだろう。身体的に断絶された(かのように見える)私たちは、精神的に結びつくことさえ覚束ず、失敗ばかりを繰り返す。
「ヘテロゲニウス・マルチコア」は、無菌室のようだった。
共感を尽く拒んだ展示物の数々、一見理解に苦しむものも多く、「表面的な共感など要らない」という姿勢の表れであろう。なかでも“共感への強い拒絶“は山崎の映像作品に色濃く映し出される。画面は荒れる。たこ焼き機を囲む。隠匿されないグリーンバック。嘔吐。私が作品群、展示から受け取った問いは以下の四つに集約される。
・ゲニウスは存在するか。
・ゲニウス的“私“、私‘は存在するか。
・ゲニウス的“私“、私‘同士の最小人数で実験する。(二人/四人展の開催)
・ゲニウス的“私“、私‘とゲニウス的“あなた“、あなた‘は接続し合えるかを実験する。(展示と観覧者の関係性)
「共感性羞恥」という言葉が、人口に膾炙して久しい。HSP(Highly Sensitive Person)に関する書籍は飛ぶように売れ、書棚を席巻する。憚りながら言うが、私は誰にも共感していないし、Highly Sensitiveでもない。生きづらさを感じるのは、そんな超能力のせいではない。
共感は難しい。真に共感するなんてことはあり得ない。ただ、その語義を「反芻行為」ぐらいにまで広げるのであれば、私たちはゲニウス的に接続されているのかもしれない。欠伸は感染る。心理学的ミラーリング。しかしその反芻に、感情は伴わない。私は、私たちは、感情を伴って共にあることを欲し、人の間に生きている。
煮え切らなさ、もどかしさ、その類のものを心に抱いた。私は、山﨑の嘔吐に「もらいゲロ」はできなかった。共感どころか、反芻することもできなかったのである。展示での問いはまだ発展途上であり、私はいずれ思い出したかのように「もらいゲロ」するのかもしれない。しかし、「私たちは分かり合えない」と突き付けるではなく、山﨑の混迷と葛藤をそのままに写したような映像、そしてその展示は、彼の「懺悔室」のようにも見えた。
テクノロジーと人間とを比較した際、そんな“煮え切らなさ“が、ともすると、人間を人間たらしめているのかもしれない点には留意するが、私たちがいつだって感情移入するのは、竹を割ったような、実直な、エゴイズムそれ自体、その熱量に対してである。それこそ、そのエゴイズムは、ホモジニアスでもヘテロジニアスでもない、機構そのものを超越した生の欲動とも言えるだろう。
“煮えきれない“ように見えるのは恐れや慄きかもしれない。一方で、他者の強い懺悔や悔恨は、私も(それが私‘であっても)、理解を深めることに躊躇する(だろう)。それは精神的操作ではなく、連綿と受け継がれてきた生命の機構だ。他者の、つらくかなしいこと、に一々心を揺るがせていては、生きてはいけない。もちろん、これは嘆かわしいことだ。
私は嘔吐できなかった。山崎、山﨑‘の懺悔や悔恨、そのもどかしさを、私、あるいは私'は身体的にも精神的にも反芻できなかった。
ゆえに、私はアンチゲニウス的結論に達した。神の不在を宣言するわけではない。人の能動的、主体的、切実な行いのなかで、私たちは傷つきながらも(何かを言いながら)生きていかねばならないし、共感しようとせねばならない。
それに対する、拍手喝采も、冷ややかな目線も、変わらない。同じく能動的であるならば、あとはゲニウスのお力添えを"神頼み"するのみである。熱心な宗教者には、神の御加護があって然るべきだ。エーテルだって、いまだ世界に満ち満ちている。
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