もとより我々は、人間に、
- 月嶋 修平
- 2021年3月24日
- 読了時間: 6分
更新日:2021年3月25日
終電の阪急電車に揺られていると、向かい側に座る一組の男たち、若い大学生風の二人が、大きな声で話していた。肩を組み合い、たいそう酔っている。
だからさ、その看護師、ティンダーで会ったんやけど、飯食ってすぐホテル。でも生理やったらしいから、フェラで抜いてもらったわ、はは。先言うとけよなぁ。
あらゆる側面において快い話ではないのだが、必死に目くじらを立てるほどではない。この手の話は、毎分毎秒世界中のどこかでされているし、誰しもそういうことを言いたい時分もあろう。
個人的な意見としては、それでもこれが「その看護師たち、全員生理やったから二十人に体中舐めてもらったわ」だと、あまり不快ではない、というより、笑ってしまう。"程度"が甚だしく、可笑しさがある。
これでも大多数の人間が嫌悪感を示すことは理解する。どちらの発言であっても常識的、道徳的、女性蔑視的、職業差別的、品格の——問題が混在し、他の乗客たちが冷笑しているのも見てとれた。
どうすればこの発言を心中で御しきれるのだろう。どうすれば理解し共感できる。そもそも不快の源泉は何なのか。悶々と考えているうちに、ふと思った。その看護師が、もしも、この世界に——。
『人間失格 太宰治と三人の女たち』(2019)は作家、太宰治の生涯を、脚色を含めながら映像化した作品である。僕自身、太宰治に対して、あるいは『人間失格』に対して複雑な感情がある。中学のころに『人間失格』を読み、甚く心を打たれたのだが、今となっては苛々するばかりだ。それは作品自体に、というよりも、受容のされ方にある。誰も彼もが、主人公、お道化の葉蔵に「僕/私も、この気持ちがわかる!」という顔で『人間失格』を本棚に置き、鼻息を荒くして語るが、葉蔵のように上手なお道化は周りを見渡しても一人もいない。
「人間失格パラドックス」とでも言おうか、「人間失格が好き、わかる」と表現すればするほど、それは道化の失敗を重ねることになり、主人公の葉蔵から遠く離れていく。『人間失格』に、理解や共感があると示すほどに、それは『人間失格』の世界には適格であり、作中内の『人間』の意味においては『人間適格』であって、それを作外からメタな視点で見た際には、もちろん彼ら/彼女らは人間失格である。
簡単に二律背反を持ち出すのは癪だ。現実的には問題はもっと複雑で雑多なのもわかっている。だが、僕が、そして多くの人々が“人間失格コンプレックス“を持つのは事実だろう。
映画は、終始、嘘のような画面で表現される。毒々しく痛々しい花々、馬鹿みたいなラブシーン、全てが虚飾のようで、賛否両論あったのも肯ける。「愛」と呼称するのも憚るような浅はかさ、言葉の数々。しかし、元来愛の定義は不可能であり、高尚か低俗か、この二つのどちらかを提示することさえ難しい。そういう意味では意欲的な画面作りとも言えよう。端から見て高尚か低俗か、そんなことは当人たちにはなんの関係もない。
ただ、その安っぽさ——まるで高級ラブホテルでの情事のような——には、皮肉にも私は怒りを覚えなかった。一部の人間に神格化され、多くの人間に「なんとなく闇のある凄い作家」と見做されている太宰治だって、一人の、欲望に忠実な、人間だった。適格だったのか、失格だったかは知らない。しかし、人間。そのように僕には見えた。
坂口安吾の短編に『不良少年とキリスト』がある。これは友人でもあり、同時期に「無頼派」と呼ばれ、ともに文壇を牽引した太宰治に対して、また彼の死に寄せて書かれた文章だ。
太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになり切ることが、できなかった。
今年の一月何日だか、織田作之助の一周忌に酒をのんだとき、織田夫人が二時間ほど、おくれて来た。その時までに一座はおおいに酔っ払っていたが、誰か織田の何人かの隠していた女の話をはじめたので、
「そういう話は今のうちにやってしまえ。織田夫人が来たらやるんじゃないよ」
と私が言うと、
「そうだ、そうだ、ほんとうだ」
と間髪を入れず、大声でアイヅチを打ったのが太宰であった。先輩を訪問するには袴をはき、太宰は、そういう男である。健全にして、整然たる、本当の人間であった。
しかし、M・Cになれず、どうしてもフツカヨイ的になりがちであった。
(略)太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどというものには分からない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青臭い思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。
もとより、太宰は、人間に失格しては、いない。フツカヨイに赤面逆上するだけでも、赤面逆上しないヤツバラよりも、どれくらい、マットウに、人間的であったかもしれぬ。
坂口安吾『不良少年とキリスト』より
劇中にも坂口安吾は顔を出している。その雑な扱いに、一人の“坂口安吾信者“として憤りはあったが、それは、まあ、いい。
いかに目で、耳で、体で、ときに美しい世界に浸ろうと、私たちはくすんだ日々を生きねばならない。何色か、なんて言いようのない、ぶつぶつでぐちゃぐちゃの現実が、ぐるぐると足元に渦巻いている。
そして、そのなか、突然目の前に、手が、乳房が、陰唇が、男根が、現れて思わず手にとってしまうこと、時にそれらを自ら相手に差し出すこと、僕はおいそれと批判することはできない。誰だって寂しくつらい。それこそ、寂しさを紛らわせる“不良少年“の行いそのものだろう。
太宰治は、キリストではなく、一人の人間だった。それを伝えたいがためにこしらえられた(ように見える)映像は、十二分にそれを発散させ収束させていた。もちろん一本の映画としての評価ではない。太宰治史、あるいは現代社会史とでも呼べるもののなかでの位置づけだ。
とかく神聖化されることの多い一人の悲しい男、受肉もしていなければ、道化も演じられない、そんな一人の作家の浅ましくも軽やかな生活、そしてその脇に佇む女たち、彼も彼女らもみな道化を演じようとした。結果に関しては、言わずもがな。
道化を演じた、一人の人間。隣の誰か、すれ違う誰かをそう慮ることで、解決することもあろう。そして冒頭の看護師だって、はたまた酔っていた二人の男だって——。
我々は、遠い人に対して、想像を巡らすほかない。ひょっとすると、近しい人にさえ——。自らのことさえまことに知り得ぬのに、ましてや、あなた、そして第三者に対してなんて、気が遠くなる。
件の看護師が「ブスの男を暇つぶしに抱いてやったわ」と高笑いしていること、件の男たちが翌日に赤面逆上していること、その両方を心より望み、また僕は道化の道に舞い戻ろうと思う。皆道化を演じ、時々失敗する。笑う。虚勢を張る。酒という魔術で、恋“擬き“をしたり、大口を叩く。翌日には赤面逆上する。これらは、もう二度と会わない人、限りなく死人に近い彼ら彼女らに対する弔いであり、供物でもあり、痛烈な死体蹴りでもあろう。それ以外に人間らしい営みなどないし、もとより我々は人間である。
情死なんて、大ウソだよ。魔術使いは、酒の中で、女にほれるばかり。酒の中にいるのは、当人でなくて、別の人間だ。別の人間が惚れたって、当人は、知らないよ。
第一、ほんとに惚れて、死ぬなんて、ナンセンスさ。惚れたら、生きることです。
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