ミシュラン系ラーメンは貴方を人生の主人公にはしない
- 月嶋 修平
- 2021年4月15日
- 読了時間: 9分
その店が『美味い店かどうか』は、結局のところその店の店主の価値観と、自らの価値観が『合う』かどうかに、多分に左右される。
友人、かく語りき。
原理主義者、なお的を射りしか。
“ある飲食店を応援する“というのは、何も人に勧めたり、食べログで星を沢山つけることだけではない。その店に行き、食べ、金を落とすという一連の行為こそが、一番その店を応援していることになるのだ。その意味で、我々は、“飲食店の選択“という行為について、深く考え続けなくてはならない。
また別の友人、かく語りき。
蝋の翼もて自由を謳歌せし者なり。神の逆鱗に触れじ未来を見てしがな。
——食の話に決裂はない。
音楽や小説、映画や写真などについて語るときより、食について語るときの方がぬるい空気が流れている。真剣に揉めることにはならない。政治や思想、宗教の話と絡むことはなく、一見「望む世界像」の違いを意識しないで済むからだ(もっとも、私は食の話も大いに望む世界像に関わると思っている)。
大抵「うまい」か「うまくない」の二択の感想しか出てこない。そして「うまくない」場合はその発話自体が生まれないこともある。その後細々となにか言ったとして、その「うまい」「うまくない」の二択が共通していれば枝葉末節では諍いは起きないものだ。
また、食事体験というのは店の雰囲気や接客、当日の精神状況、同伴の相手などをひっくるめた総合芸術のようなものであり、一概に舌のみで判断がつくとは言い難い。これも食を語る難しさ、議論になり得ない要因の一つだろう。そして、お互いの主張が食い違わない程度の結論に軟着陸する。二人の牽制によって、滑走路は常に美しく整えられている。「うまい店知ってる?」は「今日は一段と寒いですねえ」と同じぐらい使い勝手がいい。食はあまりに我々の生活に結びついており、文字通りの生きる糧であり、ありふれた下賤なものでもある。だから話題にはなっても議論にはならず、薄くて軽い“語り“のみが食文化の周りをふわふわと浮遊している。
一方、なんでもかんでも「うまい!」とかっ喰らう人生の方が幸せに決まっている、と私は思う。いちいちなにかしらにケチをつけ、批評家気取りの人間の寒々しさと言ったら——(この発言の危うさは承知している)。こと「食」「教育」「デザイン」にはみな口を挟みたくなるものだ。日常生活のなかで"甘噛み"で経験しているものだから、みな潜在的にセミプロを名乗っている。もちろん浅薄この上ない。
話がずれたが、とにかく食というものを真剣に評価、判断するのは難しい。好みの問題、内装の問題、ファッションや立ち位置の問題(嫌いな奴が贔屓のカレー屋は、問答無用で嫌いだ)。
私自身はそれほど食にこだわりがある方ではない。衣の大仰なバカみたいなカツ丼も好きだし、きっちり炊いた山菜おこわも好きだ。イクラやウニをふんだんに使った高級パスタも好きだし、ケチャップの酸味の残る古びた喫茶店のナポリタンも好きだ。自炊はするが、大したものは作らない。片栗粉とみりん、料理酒くらいは常備している程度の成人男性である。適当に煮るか、炒めるか。好きな食べ物は寿司。嫌いな食べ物はない。
うまいラーメン、まずいラーメンの話がある。
家系、二郎系、醤油味噌塩豚骨、食文化のなかでもラーメンは語りやすい。単価が安いのもある。はずれだろうと痛くはない。卑近でありながら、千円未満で、そして安すぎもしない(立ち食い蕎麦は安すぎて語られない)。ラーメンは語られる。サブカルチュアルでアイコニックである。シュッとしてお洒落、がウリの男も「庶民感」を演出できるし、華やかさを推す女も「親近感」を醸し出せる。私のような下賤の民は、新規開店の二郎、ないし“二郎インスパイア“は必ず食べに行くし、どんな箱入り娘だって「私は味噌が好き」ぐらいの意見は持つ。ラーメンは立派な大衆文化であり、語られるがゆえに絶えず厳しい批評に晒されている。ラーメンは間違いなく私たちの生活を彩る。誰しもに思い出の一杯があり、記憶から抹消された何十杯、何百杯がある。
そのなかでひとつだけ、本当にひとつだけ眉間にシワを寄せてしまうものがある。「ミシュラン系ラーメン」だ。京都市内ではまだそこまで目立っていないが、大阪の都市部ではどんどんと数を増やしている(ここで僕の言う「ミシュラン系ラーメン」とは、ミシュランガイドに載ったことを喧伝するラーメン屋、あるいはミシュランガイドに載ることを志向するラーメン屋、あるいは上記のようなラーメンを好む人間をターゲットに作られたラーメン屋、を指す)。
淡白な塩ベースないしは鶏白湯のスープ、こだわりの細麺、具は最低限なんです。チャーシューはないこともあるが、あったとしても色は赤すぎるか白すぎる。出汁と麺のハーモニーを楽しんでいただきたいんです。途中で山椒を入れてみてください。お好みで七味も。木目と暖色系の照明。マニュアル接客の女子大生スタッフ(なぜかスンとしている)。斜に構えた言い方の「ありがとうございました」。並んでいる奴らの緩んだ顔。細身のスーツの男が、部下の女を連れてきているのだろう。話題作り、話題作り。本当に、やかましい。
強権的機関のお墨付き。だいたい、ミシュランとは何か。そもそも食べログってなんだ。飯の良し悪しぐらい、自分で判断しろい。大切な人の誕生日や、プロポーズにだって、そんな第三者の評価を頼るのか? それならもうあなたの友人/恋人/配偶者は、検索機能とちょっとした(つまらない)会話機能付きの、グルメ端末と連んでいるのと変わらない。
もちろん、色んなラーメン屋があっていい。これは私の価値観の押し付けだ。多様性尊重を加速度的に求められる昨今、何かしらを排斥するのには勇気が要る。旨いミシュラン系ラーメンだってあるだろう。真摯に研鑽を積んだ"シェフ"の魂の一杯もあるだろう。しかし、今はそれを受容する側の"人間"の問題として考えたい。
あなたは、主人公か。
——わたしの名前は仁美(ひとみ)。二十六歳、今年で二十七歳になる。ついさっき、彼氏に電話で振られた。今年で付き合って四年になるのに。結婚も考えていた。でも彼は言った、「ひとみとは、一緒にいる未来が描けないんだ、ごめん」。実際のところの理由はわからない、他の女か、彼のお母さんが何か言ったか、あるいは——本当に未来が描けなかったのか。
歳をとってくると、友達は少なくなってくる。結婚を考える相手がいるとなると、なおさらだ。ワンワン泣いて縋るような友人は、もういない。彼との関係のために、多くの友人関係は霧消していた。仕方がないから、外に出た。彼との思い出のつまった部屋に耐えられなかったからだ。
どこを目指すともなく歩いていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。そういえば、彼と電話をしてから、今日はなにも食べていない。なにも土曜日に別れ話をしなくてもいいではないか。そのせいで、わたしは明日も悲しみに苛まれる。月曜日が待ち遠しいのは生まれて初めてかも、なんて、笑っちゃう。家に帰ったら『プイプイモルカー』でも、『愛の不時着』をもう一度? いや、このあと久しぶりにTSUTAYAに寄ろう。ディズニーだ。ラプンツェルを久しぶりに見たい。しかし、どんな悲劇のなかにあっても、腹は空くものなのだ。ラーメン。ラーメンが食べたい。
腹は減っては戦はできぬ(むしろ敗戦後とも言えるのだが)、わたしはラーメン屋の前に立った。そういえば、ここには一度来たことがある。
付き合いたてのころ、彼はちゃんと歯ブラシと着替えを持って泊まりに来た。もう記憶は定かじゃないけど、気の利いたお菓子も持ってきてくれていたかも。段々と彼の私物は増えた。服は脱ぎっぱなし、お皿もほったらかしになった。お出かけしよう、その約束が反故になり、二度セックスをして寝てしまって、起きた深夜、「腹減ったし、ラーメン食べにいかへん?」。彼の言葉に、わたしは「こんな時間に食べたら太るやん」と口を尖らせた。彼のジャンパーを羽織って、サンダルを履いて外に出た。「ほら、やっぱりさむいやん」とわたしは文句を言った。彼は「寒い方が、ラーメンうまなるで」と答えた。「あほか」と彼の背中を叩いた。本当に寒かったから、歩きづらいぐらいにくっついた。
毒々しい赤色の暖簾は、あのときと同じようにはためいていた。一人で暖簾をくぐるのは勇気が必要だったが、こんなことを躊躇しているようじゃフラれた意味がない。
白い木目がまだ真新しいテーブル、そこにお洒落でシックな黒の器が運ばれてくる。白いシャツ、黒いサロンで身を包んだ若い女が、嬉しそうな顔をして、言う。「特製ラーメンで、ございます」。済んだ褐色のスープに、二口で食べ終わってしまいそうな量の黄色い麺、微かな音量で流れるジャズに身を預けながら、髪も括らず、おちょぼ口で、上品に麺を啜る。この味、確かにこの味だった。何気ない冬のあの日、彼と、正直に言えばそんなに私はお腹が減っていなかったけれど、ともかく食べた、あの味。そうして、自嘲的な笑みを浮かべて、思うのだ。あーあ、私って世界一不幸な美少女——。
言わずもがな、この物語はミシュラン系ラーメンのせいで台無しだ。同情の余地がない。こういうときは、そんなに美味しくもなくて、安くもなくて、なぜ生き残っているのかわからない、そんなラーメン屋であるべきなのだ。
人生のなかで、星の数ほどある食事の機会のすべてを、自分の思惑通りにするのは不可能だ。僕だっていけすかないラーメンを食べることもある。いけすかないハンバーガーも、いけすかないバインミーも、フォーも、カレーも。
しかし、「ありがたがって」消費するという行動は、あなたを人生の端役にする。役名もない。台詞もない。「とは言っても、全部好きなんだから、仕方がないじゃん」。 ? 違う。「全部好き」は「全部なんとも思っていない」あるいは「全部嫌い」と限りなく等しい。物事を好むか好まざるかは、相対的なものだ。それぐらいに我々の感覚器や大脳、そして発する言葉は曖昧だ。言葉は心の鏡? そんなわけあるかい。人間は高尚ぶって、お洒落をしたり、文章を書いたり、わかりもしない本を読んだり、キテレツな絵の前で頷いたり、そんなものはすべて適当なことだ。曖昧な言葉、行動のなかで、唯一自分のものだ、と胸を張れるのは、感情の絶対量だけだ。そして、それは多くの場合「怒り」だ。「なにくそ」と、消費する行動は、貴方を貴方の人生の主人公にする。そしてその物語では、主人公だけが、何かを変える力を持っている。その細かな姿勢の蓄積は、必ず自らの考え方に作用する。間違っても、小汚い中華を「町中華」と名付けてファッションアイコンにはしてしまわないし、窓からの光量に言及しない。打ちっぱなしコンクリートの内装を見てすぐに「安藤忠雄みたい」と言わないし、路地裏に過大な信頼を置いたりもしない。そういうことの積み重ねは、それこそ海綿体のような大脳と小枝のような精神を生成する。賭けてもいい。
一応言っておかなければ不安なので、歯痒くも付け加える。賢明な読者の方々には蛇足で申し訳ないが、もちろん“ミシュラン系ラーメン“とは、あらゆる“そういうもの“のメタファーである。
冷蔵庫を開いても、大した食料はない。仕方なく、日清の袋麺を開けて茹でる。見映えだけは“ミシュラン系ラーメン“のような素ラーメンを啜りながら、これはこれで端役のようだ、と悲しくも思う。
しかし、半端な、下賤な、そんな気持ちでミシュラン系ラーメンを嗜むぐらいなら、僕は勇気を持って、素ラーメンでも素うどんでも啜り続ける。実現不可能なのは承知だ。卵も落とすし、ネギやチャーシューも入れる。たまにはちょっとしたところで外食もするし、馬鹿みたいに瓶ビールを空けてしまうこともある。しかしながら、これは意志の問題だ。
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