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今もどこかで鳴っている

  • 月嶋 修平
  • 2021年2月6日
  • 読了時間: 6分

更新日:2021年2月7日


あいつ今何してるんだろうね、と言わなくなった。

卒業してから年数が経ったのもあるし、調べれば何でも出てきてしまう時代のせいでもある。しかし、元々「あいつ今何してるんだろうね」という言葉は、その対象への甚だしい愛着を意味しない。その対象への弱い興味と懐古、その場での連帯とが綯い交ぜとなって、その音は空に放たれる。音は空気を震わせ、そのエネルギーは減衰していくが、ゼロになることはない。何かとの摩擦、あるいは熱となって、この世界にその音の痕跡を残し続ける。


正直に言えば、高校の匂いには辟易していた。

勿論、入学してしばらく経つとその匂いは感じなくなるのだが、卒業して久しぶりに訪れるとその匂いは否応なく脳に作用する、そういう実感が確かにある。匂いに嫌悪はあるが、その感覚自体は嫌いではない。ヒトという生き物が、かくも容易に慣らされ、無理矢理にも適応していることを自覚できる。自らの矮小と普遍とを享受できるとも言っていい。

高校の友人とは久しく会っていない。尤も、齢三十で未婚の男では、そんなものだろう。既婚で子持ち同士であれば話も弾むだろうが、同じ学び舎にいたはずであっても、人生のグラフはその後なかなか交わることはない。些細なズレ、傾きの違いが、その数年後大きな差となり、経済状況や価値観の差異となって現れる。共通の話題と言えば在学時の思い出か、あいつ何してる、などのゴシップに限定され、それを楽しみ続けられるのは、根から明るい人間か、或いは、誰もが羨む成果を得た、と胸を張れる人間だけだろう。


兎に角、高校の同窓会には出なくなったが、それでも時折高校時代を思い出すことはある。十五歳から十八歳の三年間というのは、何せ多義的に精力が有り、中学校の三年間ほどの陰鬱さ、ぬめっとしたルサンチマンが無い。ある程度自意識と折り合いをつけながら、葛藤しながらも、何かしらの結果を求めたがる時分だろう。それは彼氏や彼女を作ることだったり、部活を頑張ることだったり、勉強して成績を伸ばすことかもしれないが、とにかく高校時代というのは「快活な過渡期」だ。


僕はそのなかでも快活な方だったと思う。これは友達が多かったとかクラスの中心だったと言いたいわけでなく、単純に勉強と部活と恋愛とか、様々な方面で奔走していた、という意味だ。

毎日テニスラケットを振り、帰り道には意中の女にメールする。勉強は、好きな教科だけでもやっておこう。レギュラーとして試合に出て、近畿大会に出たい、あの子と付き合えたら、あの大学に入れたら——。

現実的に僕に出来たことと言えば、テニスコートでボールを打ち続けることぐらいだった。勉強は続かない、朝早く起きるのは苦手で朝練にはなかなか行かなかったが、放課後には黙々とトスをあげた。帰り道には好きな女にどうしようもないメールを送りつけ、返信はなかなか来なかった。それこそ、昼となく夜となく、愚にもつかないサーブを打ち込み続けていたのである。吐き気を催すほど——青臭い。

ソフトテニス特有の“パコン”という打球音は、硬式テニスのそれよりも、高く天に抜けていく。軽々と、まるで「お前の悩みなんて些末だ」とでも言いたげに、ゆるゆるとボールは落ち、力なく弾んだ。その間隙に、間の抜けた言霊が駆け抜ける。


あめんぼあかいなあいうえお!

かきのきくりのきかきくけこ!

きつつきこつこつかれけやき!

——!


テニスコートの側にあるピロティからは、演劇部のMの叫び声が聞こえた。演劇部の部員は彼一人、スポーツ刈り、空気を読まずに授業中ボケる。Mは鼻つまみものだった。成績も悪いのに「東大に行く」と言っては失笑を買っていたし、彼がこうして叫んでいる間もテニスコートではクスクスと笑い声が聞こえる。二年のときにMと同じクラスだったが、結局ほとんど話したことはなかった。Mは強い精神を持っていたのだと思う。葛藤もあったのだろうが、それを乗り越えたいという心が彼を一人芝居に駆り立てた。監督脚本演出、もちろんキャストも彼一人、秋の文化部発表会で、Mは一人芝居を一時間半もやってのけた。

多くの生徒は見ることさえしなかった。文化部発表会中、学生は自由行動で、教室での展示を見るのもホールで演奏を聴くのも自由だった。体育会の学生の大抵は、各々の部室で大富豪に興じていた。早く練習したいのに、新人戦が近いのに、音楽部のアイツの顔きもかった、文化部の発表なんて知るかよ——。

流石に劇の細部までは覚えていないが、僕は最初から最後まで観劇した。見終わった後に、皆で粗探しをして叩いた。当時流行っていた「フリースタイル」という清涼飲料水(アクエリアスに炭酸が混ざっている)をゴクゴクと飲んで、部室で笑い合っていた。その実、こうも思った——もし自分なら、一人で、ここまでのものを作れるだろうか——。彼の一人芝居は支離滅裂でおかしくて、すこし寂しかった。

その後、僕はMに話しかけて……などという青春ドラマは起こらず、結局僕とMが交わることはなかった。なんの華々しさもなく、僕たちは当たり前のように卒業し、当たり前のように浪人して、鼻水を垂らしたまま大学に入学した。Mは東大を目指して二浪している、ところまでは聞いたが、その後は知る由もない。


十年あまり経って、ふとMのことを思い出した。今の時代、調べれば簡単に見つかってしまう。彼は大手のメーカーで開発職についていた。東大も諦めたようだった。全くもって義理も権利もないのだが、なんだか腑に落ちないと思った。高校時代のように、訳の分からないことをしていて欲しかったのである。無理矢理にでも、職場の飲み会では一人芝居が大ウケしているんだろう、と想像を巡らせた。あるいは、奥さんや子供にウケているのかもしれない。人知れず舞台に立っているのかもしれない。ただ、生活というのは多くの場合容易ではないし、容易であったとしても半端な気持では臨めない。何かを止めるというのは、何かを始めるということを意味する。他者がどうこう言うべきものではないのは自明だが、そんな正論ばかりでは世の中はいっそうつまらない。


あの日、僕が打った力のないファーストサーブ、そしてMの馬鹿みたいな発声練習は、同じ空の下でぐるぐると混ざり合って、見えなくなるほど聞こえなくなるほど小さくなった。何も僕ら二人だけの音ではない。誰かのしゃがれた「ファイトファイト」というかけ声、誰かのかすれたフルートの音色、誰かのバットの素振り、誰かの「付き合って下さい」という告白、誰かの照れ笑い、誰かの泣き声。乾いたクレーコートの空中には、最早留まっていないだろう。慰めだ、と揶揄されようと、あの日あの場所で鳴っていた音は、今もどこかで鳴り続けている。そう思わずには、とかくこの世は生きがたい。



 
 
 

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