top of page
検索

逃避と内省のあいだ

  • 月嶋 修平
  • 2021年3月3日
  • 読了時間: 6分

更新日:2021年3月4日


人と比較せず個人ごとに幸せと感じられる

もしそんなことができたら

それはお前の望む世界だ

(略)

現実的には…

誰かの幸せによって別の誰かが不幸になるなんて珍しくもない話だ

競い合い奪い合い

そうやって勝ち取る幸せってのもあるだろう

(略)

何かを選ぶ時は何かを選ばない時

いつかは決めなくちゃいけない日がくる

いつかはな


上杉風太郎 『五等分の花嫁』10巻より


 幼稚園のころ、テレビに映った『セーラームーン』に少し胸を高鳴らせて、しかし「こんなんおもろないし」と親に強がりを見せて、すぐにチャンネルを変えた。親はニヤニヤしながらこちらを見ていた。それにもなんだか腹が立った。もちろん、本当は『セーラームーン』を見たかった。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』を見たのは高校生のころだった。それからパソコンでちまちまと『灼眼のシャナ』『ゼロの使い魔』『とらドラ!』やらを見るようになった。誰に言うでもない。そういう話は学校ではしない方がいいと思った。僕にも僕なりの立ち位置があったし、アニメオタクへの偏見は今よりずっと強固なものだったと思う。当時の彼女には携帯の画像フォルダは見せられなかった。BUMP OF CHICKENやAqua Timezの話をして、茶を濁した。結局、浪人中にフられた。

 大学に入り、念願の一人暮らし。しかし、日々生活を送っていく上で、大学生は思ったより忙しい。アルバイトに飲み会、デート、しょうもないことを数千字書くくだり、そうした時間の隙間でアニメを見ようとすると、あることに気づく。

 「“学園物“を受け付けなくなっている」。

 当時、アニメ『氷菓』が始まったころであったが、僕は一話で視聴をやめてしまった。『けいおん!』は見たが、何せ“高校生活“そのもの自体が鼻についてしまうのだ。実生活が忙しく、華やかなせいもあろう。大学生特有の「高校生? わっけ〜」もある。とにかく、僕はそうしてアニメから離れた。常識の範疇として、流行っているものは見るが(転スラ、リゼロなど)、それ以上ののめり込みはなかった。


 『五等分の花嫁』は結末を知ってから、第一話を見た。流行っていると聞いていた。十歳下の弟も面白かったと言っていたし、結末について方々で盛り上がっていたことも知っていた。第一話を見た感想は「こっから、そうなるんか、すごい」。気づけばアニメを熱心に見て、違法サイトで漫画を読もうとした。しかし申し訳なくなって、単行本を買った。作者にお金が入って欲しい、と思った。一番くじも引いた。“ごとパズ“(五等分の花嫁のゲームアプリ)のイベントガチャを回した。日本橋オタロードに足を運んで、ラバーストラップのガチャガチャを回した。Tシャツを買った。いや、格好つけずに言うと、彼女に買ってもらった。ありがたい。


 『五等分の花嫁』は、面白い。

 “可愛さ500%の五つ子ラブコメ!“と謳っている通り、可愛さは500%だが、サスペンスやミステリーとしての側面も強い。主人公の風太郎が、一体五つ子の誰と結婚するのか。第一話で“誰か“との結婚式が描かれるが、その相手を予想するのが面白い。僕は結末を知ってから読んだが、それでも話の展開を読めなかった。そして、その構造、構成の面白さもさることながら、それ以上に特筆すべきはキャラクターの描き方だろう。これは、絵の技術ももちろんだが、読者を、そしてキャラクター達を“舐めない“姿勢に帰結する。


 絵の技術に関して、まずキャラクターの造形が愛らしい。可愛いのはもちろんのこと、デフォルメが上手い。まさに“キャラクター“がしっかり伝わってくる。

 そしてその可愛らしい絵のなかで、時折差し込まれるシャープな横顔の筆致に胸を掴まれる。横顔が、本当に美しい。そして、ここぞ、のシーンでは必ず見開き一ページ。でかい絵は、感動もでかい。

 五つ子だから、顔は一緒なのだが、その作りも上手いと思う。元々漫画やアニメのキャラなんてのは、大体が同じ顔をしている。髪型や髪色、目の色などで描き分けてはいるが、その差異はあってないようなものだ。「アニメキャラなんて、みんな顔一緒やん」、こう言われても、『五等分』ファンは嬉しそうにこう答えるだろう、「せやねん、五つ子やからなぁ」。


 初っ端に「五つ子」という、到底あり得ないような設定が張り手で示されるが、それゆえそれ以降の出来事に疑問を抱く隙を、読者に与えないように工夫されている。端々に物語の速度を削がないような適度なリアリティが持たされている(五姉妹の仲の良さ悪さ、学園内での扱いなど)。ラブコメにお決まりの、第三者が「超絶美少女!」だとか「学園のアイドル!」と言うシーンはない。容姿端麗であることは、作中“ある程度“示唆されるが、それ以上の蛇足はない。可愛いキャラクターは、(作中の)外野の評価などに頼らず、その技術と魂で可愛く描き切るのだという意志を感じる。


本編では余程のことがなければ着用時の下着は見せないようにしています。これはパンツを見せたらヒロインの格が落ちるという謎の宗教に入っているせいでもあります。裸は大丈夫なので本当に謎です。よく読んでる方は知ってるかもしれませんが一度だけ不安になって描いちゃったことはあります。

春場ねぎ twitterより


 少年誌掲載のラブコメだから、もちろんお色気シーンもある。入浴回、水着回。セクシーで見ていて快いものなのだが、ただ、そこに下賤さを感じない。チープに見えない。これは主人公の風太郎が“超“がつくぐらい貧乏だったり、学年トップの学力を努力の結果有していると言う設定のせいもあるが、設定以上にその言動が、僕たちに彼を応援させる。彼は、不誠実でもノロマでも鈍感でもない。ヒロインの好意にもちゃんと気づく。話の都合上の“難聴““すっとぼけ“なんかない(正確に言えば、難聴は一度だけあるがそれも物語に華を添えている)。彼は一人一人の好意をちゃんと受け止めた上で、冒頭の引用文のセリフに行き着く。従来のラブコメでは、ドジでノロマで鈍感な主人公に読者を感情移入させる形式が多かったが、『五等分の花嫁』は違う。僕たちは「皆にモテモテ、ハーレム主人公」を応援するのではなく、健気に風太郎を思う五つ子たちに感情移入する。


 何分、漫画やアニメといったサブカルチャーは“逃避先“としての意味合いが、いわゆるハイカルチャーと呼ばれるものより色濃い。純文学やアート作品といったものは、僕たちを逃げ場なく追い立て、内省を迫る。それが芸術性として評価される場合もあれば、説教臭さとして疎まれることもある。一方、逃避ばかりしていても、それはそれで虚しくなる時が来る。「僕たちは、どこまで行っても消費者なんだ」。


 『五等分の花嫁』は、消費者の移り変わり、コンテンツの移り変わりが早いポップカルチャーのど真ん中にありながら、僕のようなスノッブをまた「なんでも楽しめる」一読者にしてくれた。五つ子たちは、可愛い。純粋で汚れなく、そして人間らしい。こんな世界があったら、僕が風太郎であったら——。いや、僕はそんなに良い奴ではない。僕は勉強は出来た方だったが、風太郎に言わせれば「それだけの人間」なのだろう。

 逃避と内省のあいだを行ったり来たりしながら、僕は八巻、十巻、そして最終巻で涙を流す。そして、その対象が何かはわからないけれど、ふと思う。頑張ろう。


 作者の春場ねぎ先生、担当編集の方々そしてメディアミックスに携わった方々に最大限の敬意を払い、感謝と労いを伝えたいと思う。

 文章にしてしまうことで、“熱“のようなものが冷めることを恐れていたが、どうやらそんなものは杞憂だったらしい。三月中にゲーム発売と一番くじ、アニメ二期最終話が控えている。商魂逞しい、と思いながらも、素直に好きなものの世界が続いていくことを喜びたい。




 
 
 

Commentaires


記事: Blog2_Post
  • Twitter
bottom of page